富くじ伝説
九州の山奥にある小国町、ここにちょっとした伝説があります。
今回は小国郷の「富くじ伝説」についてです。
富くじと福銭
江戸時代、熊本細川家の参勤交代が通る小国会所(役場)では、通過するときにかかる人馬の賃料に頭を痛めました。
そこで、人馬銭不足を補うべく、「小国両神社」で「富くじ」を行うことになったそうです。
富くじは嘉永から安政の10年間に716回も行われたと記録が残っています。
(小国両神社)
さて、江戸時代は飢饉が多く、年貢が足りない農民や、種もみまで食べた農民もいたほどでした。
小国両神社の境内にあった神護寺は、そういった農民たちに賽銭を貸してあげ、農民は喜び「福銭」と呼びました。
そのうちに商人たちも、賽銭を借りて商売繁盛を願い福銭と呼び始めました。
商人の福銭に繰り返しは利益を呼び、恵比寿講がはじまり、近くの「鏡ヶ池」横に恵比寿さまがお祭りされました。
商人たちは、朝には近くの「けやき水源の水神」さまの湧水で身を清め、小国両神社で家運隆盛を願い、
日中は福銭を身に着けて商いし、夕方には恵比寿さまにその日の儲けを報告したそうです。
(鏡ヶ池)
富くじ伝説その1
そんな商人の湊屋橋本純左衛門は、あるときけやき水源に舟の入る夢を見ました。
夢を吉兆と感じた純左衛門は富くじを買い、見事一番くじを引き当てます。
湊屋はこの福運を一人占めにはできないと思い、豊後へ通じる横町坂やけやき水源前の小道を石畳にしました。
(けやき水源、ケヤキは樹齢1000年と言われている)
富くじ伝説その2
湊屋の正夢の話を聞きつけた城野市郎右衛門は、福銭を持ち、小国両神社、水神さま、恵比寿さまの三社に通い、
当たりくじを祈りました。
ある朝市郎右衛門は、視野いっぱいに広がる湧水の夢を見ます。
その後市郎右衛門は、小国両神社と久住神社の富くじに5回も当たったのだそうです。
市郎右衛門は湊屋にならい、小国郷内の福坂の石畳など社会貢献を恩返しとしました。
人々はその石畳を「富くじの道」と呼び、今でもその一部が残っています。
富くじ伝説その3
明治となり、小国の福運三社を信じる人たちに、小国六賢人とよばれる人たちがいました。
その6人で「六助講」という新たな恵比寿講が始められたそうです。
そのうちの1人大塚麿は大阪に進出し、海運鉄道にて大成功をおさます。
やがて明治26年に、六助講を中心に銀行ができたのです。小国銀行です。
小国銀行は後に、支店を広げ、他の銀行と合併し、現在の熊本県の地方銀行である肥後銀行と発展しました。
福運三社参り
実は今も福銭が貸していただけるんです。福銭は五円です。
小国両神社、鏡ヶ池(財運の恵比寿さま)、けやき水源(海運の水神さま)の三社をまわり、
備え付けてある参拝スタンプを用紙に押します。用紙は各地点や役場などに置いてあります。
3つのスタンプが押せたところで、近くにある福銭交換店で福銭をお借りすることができます。
福銭を財布などに入れていつも身につけましょう。そして願いがかなったり、よいことがあったら、
そのお話しとともに福銭を返却してください。
(参拝スタンプを捺印して福銭をいただく)
小国郷に伝わる富くじの伝説でしたが、小国にはもう1つ、三社の1つである鏡ヶ池に伝説があります。
次の「悲恋の伝説」のページでご紹介しましょう。